恐怖表情は注意にどのような影響を与えるか?
今日取り上げる論文は、恐怖刺激が注意に与える影響について調べたものです。
これは、例えばお化け屋敷を歩いている時に、なにか怖いものがヌッと現れると、そこから目をそらせばいいのに逆にロックインされて凝視してしまいます。
こういったことに見られるように、不安をかきたてるような刺激は、そこに瞬時に注意をそこへ向けて、かつ固定するような仕組みがあるそうです。
この研究で不安刺激と注意の関係を調べたところ、まず後部頭頂葉に活動の変化が起こって、その後、高次視覚野の活動が変化することが示されたそうです。
つまり
不安刺激→後部頭頂葉→高次視覚野
の流れで、あいだに後部頭頂葉の活動を挟んで、高次視覚野の活動が調整されることが示されています。
これは視覚野の活動は頭頂葉によって調整されるということで、
やはり注意というものを考えるときには頭頂葉のことを頭に置かなければいけないのかなあと思いました。
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【要旨】
「視空間的注意は、恐怖や不安を着起こす視覚刺激に優先的に向けられる傾向がある。以前行った研究で私たちは恐怖表情は中立表情と較べて、高次視覚野の高い活動を引きおこすことを示した。今回同様の実験を新たな手法で行ったところ、恐怖表情刺激により、まず後部頭頂葉の活動が変化し、それに引き続いて高次視覚野の活動が変化することが認められた。このことから高次視覚野の活動は後部頭頂葉の活動によって調整されることが考えられた。」
5ヶ月の子供と遊んでいて
こんな遊びでこれをこうすれば、脳のどこそこでこうなって、ここの機能がこうなるんじゃないだろうか、
などと、適当な仮説を立てて子どもと関わっている自分にふと違和感を感じることがあります。
子供は道具でもないし、感覚を運動と協調させ、それがワーキングメモリーとどうこうなど、人間の本質じゃないんじゃないかと、そんなものサルでもパソコンでもできることで、そんな
ことに血道を上げてどうするるんだと思ったりします。
じゃあ、人が人らしいことってなんだろうと考えると
それは何が正しいか自分の頭で考えられたり、何が良いことなのか自分の心で感じられたり、そういう部分かなと思うのです。
これはサルにもスーパーコンピュータにもできない人だけの何かだと思うのです。時に倫理という言葉でも表現される何かだと思うのです。
私の好きな逸話にガンジーの話があって、これはイスラム教徒とヒンズー教徒が殺し合いをしていたインド独立前後の物騒な時代に
ガンジーのもとに、自分の子供をイスラム教徒から殺されたヒンズー教徒がやってきて
おれはどうすればいいんだ、今からイスラム教徒のところに行って子供を殺しに行くしかないだろうと詰め寄ってきてそれに対してガンジーは、穏やかな顔で、「親が殺されたイスラム教徒の孤児を引き取りなさい」
「そしてその子をイスラム教として育てなさい」といったという話があるのですが、
もし霊長類ヒト科が倫理と言われる何かがあるとしたら、ガンジーの態度に見られるこうした何かで
知情意が高いレベルで統合される時、現れ出る何かが倫理と言われる何かで、これはヒトにしかできないし、ヒトをヒトたらしめる何かだし、子供に伝えたい何かでもあってこれを伝えるのに適当な簡単な方法論も見当たらず、
やはり自分がロールモデルとなって倫理的に振る舞う他ないのかなと思ったりしました。
ヒトとして生まれた以上、ヒトらしく生きていきたいなあと思います。
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