
一次視覚野と短期的可塑性
興味のあるものというのは黙っていても目に飛び込んでくると思います。
それがかっこいい車だったり、かわいい女の子だったり、片麻痺の患者さんだったりいろいろだと思うのですが、何らかの情動を喚起する情報というのは嫌でも目に入ってくる。
何かが目に飛び込んでくる時、何かに注目している時というのは脳がどのように活動するのかについてはいろいろと調べられてきたようです。
よく言われているのは、高次の注意機能が視覚野の活動を調整するというものです。
例えば駅前で赤いセーターを着た人と待ち合わせをするようなときには、視覚野の赤やセーターに反応するような領域の活動が高まるよう、トップダウンの調整が入ってくる。
前頭前野(トップダウン的注意システム)→視覚領域(赤・セーター関連領域↑)
みたいな感じで視覚領域の活動が赤のセーターを見つけやすいように調整される。
つまり視覚野というのは、お笑いコンビのぱっとしない方みたいに、優れた相方(高次認知機能)と組んではじめてやっていける、ピンではやっていけない、というのが大方の見方だったようです。
今日取り上げる論文は視覚野、とりわけ一次視覚野というのは相方なしでも、ピンでもやっていけることを示したものです。
ピンでもやっていけるというのは、視覚野がその状況に応じて高次認知機能の助けなしに自在に活動を変えていけるということです。
実験の構成はややこしくて、正直よく分からなかったのですが、こうした一次視覚野の活動の背景には、短期的な神経可塑性が関与しているのではないかということが述べられています。
【要旨】
「情動的な情報は優先して知覚処理されることが先行研究により示されてきている。本研究ではこの処理がどのように行われているかについて調査したものである。実験では一次視覚野が条件刺激の情動要素の検出にどのように関わっているかについて様々な条件下で繰り返し実験を行い比較検討した。結果、情動的な要素を含む刺激を提示した場合、65-95ミリ秒で一次視覚野の活動の変化が見られた。このような現象は視覚野において短期的な皮質再構成が行われ、情動刺激に対して特異的に強い反応を示すようになったと考える。」
コメント
ということは、一次視覚野が「意識」をもっているということだろうか。
というか、「意識」や「注意」みたいなものがほんとうにあるのだろうか。
昔の人は雷を見れば「あれは雷神様が・・」というふうに考えただろうし、海の渦巻きを見れば「あれは水神様が・・」と考えたかもしれない。
雷は放電現象だし、渦巻きは乱流現象だろう。そこに雷神や水神の心があるわけではない。
水分子や静電気が一定の状況下におかれると自然発生的に雷やら渦巻きが出来るわけで
雷や渦巻きをいくら分解してもそこから心が出てくることはおそらくない。
意識や注意というのも、水分子や電子が雷や渦巻きの正体ではないように
脳そのものに実在を求めるというのも何だか難しい話なんじゃないかなと思ったりします。