「感覚運動体験に基づいた認知」
ヒトは考える生き物です。
心臓が脈打つように、呼吸が繰り返されるように、ヒトは何も意識しなくても考え続け、認識し続ける生き物なのですが、これはそもそも脳科学的に考えるとどういったものなのでしょうか。
認識とは何かという問題は古代ギリシアから始まり今に至るまではっきりしていないのですが、一つの考え方として脳はコンピュータのようなものだというものがあります。
コンピュータはいろんな情報を数字に落としこんで、それを計算することで、いろんなことを認識したり計算したりすることが出来ます。ヒトの脳も同じように形を持たない抽象的な情報だけを操作すればことたりるのではないかというのが脳と認識機能における一つの立場です。
もう一つの立場は認識は脳だけでは完結しない、生の肉体、生の現実世界が必要だという考え方です。
例えば困難な状況は「ハードルが高い」というふうにも認識されますが、こういった認識の仕方は体の感覚がベースになっていますし、「愛情」という意味を認識する時にはあたかも親に抱かれたかのような胸の暖かさや安心感といった身体感覚や情動感覚を伴います。
さらには「馬子にも衣装」という言葉がありますが、これはヒトは脳だけではなく着ている服や置かれた状況によって認識の仕方や考え方が変わってくることを意味しています。
つまり認識というのは生のカラダやナマの世界が必要であって、数字でいじくるようなコンピュータのやり方とはだいぶ違うんじゃないかというのが認識におけるもうひとつの立場です。
今日取り上げる論文は後者の立場についてなされた様々な研究のレビューになるのですが、こういった後者の立場は様々な脳科学的研究からも裏付けられていることが述べられています。
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【要旨】
伝統的な考え方では認知活動は抽象的な記号によって処理されるもので、視覚や聴覚、触覚、内省感覚といった具体的な感覚要素とは独立したものであるという立場をとってきたが、本校で取り上げる“感覚運動体験に基づいた認知”ではこの考え方を否定する。“感覚運動体験に基づいた認知”理論では、認知活動のベースになるのは感覚要素に基づいたシミュレーションや身体状態、あるいはその場の状況であると主張する。様々な研究によりこの理論の正当性が裏付けられてきているが、本稿では知覚、知識、言語、思考、社会的認知、そして発達をテーマにした研究を取り上げ、その正当性を検証する。さらにこの理論に関する研究のレビューを行い、この理論の起源と内容的な誤解について説明を行う。さらに今後研究を行うにあたって影響を与えうる理論的、経験論的、方法的問題について議論を行う。
参考URL:Grounded cognition.