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「社会的認知は身体化されるのか?」

私達は絶えず考え続ける動物です。

明日の株価から上司の機嫌までヒトの考えることはいろいろですが、こういった思考のベースになっているのは認知、認識と言われている機能です。

ではこの認知、認識がどういったものかというと端的に言えば分かること、感じることではないかと思います。

大きいビルを見れば大きいと認識し、泣いている子供を見れば可哀想と認識する。こんなふうにヒトは朝から夜まで認知認識のしっぱなしなのですが、この認識機能というのは脳科学的に見るとどういった解釈ができるのでしょうか。

一つの見方はヒトは何かを考える時、カラダで考えているというものです。

人柄を評価するのに「冷たいヒト」だとか「あったかいヒト」という言葉を使いますが、これは性格の認知が温痛覚的な感覚で理解されていることになりますし

「前向きに考える」という言葉では気持ちが、「先のことを考える」という言葉では時間が、前後感覚という空間的な感覚で理解されていることになります。

心や時間、景気など世の中には形の見えないいろんな事がありますが、ヒトは目に見えないいろんな情報を身体的に捉えることが出来ます。

こういったことからヒトの認知機能の基盤は身体にあるという考え方を「身体化された認知(embodied cogntion)」仮説というのですが、今日取り上げる論文はこの仮説について論じたものです。

結論を述べるとなんでもかんでもこの「身体化された認知」仮説で解釈するには無理があるのではないかということではないかと思います。

例えば43+32という計算には何も身体感覚は伴わないでしょうし、ヒトの考えを読みとる、認知すると言っても身体の情報抜きで理詰めで考えるということもあるかもしれない。

「身体化された認知」仮説はよいものだけれども、それで全部を説明するには無理があるというのがこの論文の趣旨ではないかと思います。

【要旨】
「身体化された認知」理論は様々な文献で示されているもののその解釈については明瞭になされていない。本稿ではまず身体化に関する様々な解釈を取り上げるが、その最も興味深い言説は身体フォーマットが認知活動において重要な役割を果たすというものである。この身体フォーマットは運動フォーマット、体性感覚フォーマット、情動フォーマット、内省フォーマットなどから構成されている。社会的認知はこの身体フォーマットを下敷きにするものであるという考え方はミラーニューロンシステムによる解釈によって部分的に説明されうるものである。しかしながらこの身体フォーマットによる認知をどこまで拡大できるかについては疑問点が残り、本稿ではその限界について示す。

参考URL:Is social cognition embodied?

コメント

とはいえ、アインシュタインは常に視空間的なイメージで数式を理解したとも言われているし本当のところはどうなんでしょう。

落ち着きなく世界と関わる1歳7ヶ月の自分の子供を見ていると、認識とは身体感覚以外の何物でもないという感じもして、例えば愛情というのは身体的な暖かさだし、嫌なこと、辛いことは固い食べ物、苦い食べ物というふうに理解されるかもしれない。

世の中にはいろんな政治思想があるけれど

いろんな人間をあれこれ見ていると、いろんな思想というのも突き詰めて考えれば身体感覚的な何か、身体感覚的な癖のようなものに落としこむことが出来るのかなと思ったりもします。

根拠は全くないのですが(-_-;)

どこぞの小説家が「政治思想というのは趣味の問題だ」と言って物議を醸しましたが、案外本質を付いているのではないかと思います。

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