「ブローカ野と言語的直感」
世界にはいろんな民族やいろんな文化がありますがどんな民族人種にも共通して言えるものに「ことばを使う」というものがあります。
高層ビルが立ち並ぶ摩天楼からアマゾン奥地の原住民まで人が人として生きる場面に言葉のないところはない。これはいったいどういうわけでしょうか。
一説によるとひとは脳の中に普遍的な言語装置のようなものがあるからではないかということが言われています。
日本語やドイツ語、イタリア語いろいろあってぱっと見はぜんぜん違うような気がするのですが、よくよく探っていくと何かしら共通する普遍的な仕組みがある。
この普遍的な仕組みはどの言語も持っているので、ヒトの脳というのはこの普遍的な仕組みを可能にする何かをもっているのではないか、そういうお話だと思うのですが、今日の論文はこの普遍的な言語装置について探ったものです。
実験では
①ドイツ語を母国語とする人に日本語とイタリア語を学習させる
②その後「正しい」日本語もしくはイタリア語の文章を見せその時の脳活動を測定
③さらに普遍的な仕組みから外れた「おかしな」日本語もしくはイタリア語の文章を見せその時の脳活動を測定
というような形で行ったのですが、脳の中には「正しい」文章にのみ反応して「おかしな」文章には反応しない部分があり、ここが普遍的な言語装置としての役割を果たしているのではないかということが述べられています。
|
ポイント
実験ではドイツ語を母国語とする被験者にイタリア語と日本語の学習をさせた。
この二つの言語はタイプは大きく異なるがともに普遍文法的声質を持つ言語であった。被験者に学習させたあと普遍文法から外れた「正しくない」イタリア語と日本語を提示し「正しい」イタリア語と日本語を提示した時の脳活動について比較検討を行った。
結果ブローカ野は「正しい」イタリア語と日本語を示した時に共に活動が増加し、「正しくない」イタリア語と日本語を示した時にはそのような反応は見られ、これらのことからブローカ野は生得的な制約と言語的経験によって新規に言語を学習していく際に関わっていくことが考えられた。
コメント
タイトルにも書いてあるようにこの研究は言語処理で重要と言われているブローカ野の活動について探ったものです。
言葉というのは基本的にはロシアのマトリョーシカ人形のように入れ子構造になっているそうで
「私が昨日食べようとした赤いリンゴは台所の棚の上に並んでいる」ような文章でも大きく分ければ主部+述部に分けられ
その主部もこまかく見ていくと小さな主部+小さな述部に分けられ
そんな仕組みはどの言葉でもよく似ていて、そういった階層構造的な情報処理の仕組みがブローカ野の本質ではないかというお話なのかなと思いました。
話はややこしいのですが建築にしろ文章にしろ絵画にしろ政治体制にしろ、基本的は脳の中にストンと落ちるような普遍的(階層構造的)なカタチを作るようなものがあるのかなと思ったり
そこを崩されるとなんともいえない落ち着きの無さがあって、そこを意図的に崩したのが100年前のダダイズムというムーブメントだったのかなあとか
水戸黄門を見るのは楽だけど吉田戦車の「伝染るんです。」を読むのはなんだか疲れるというのもブローカ野にかかる負荷の問題なのかなあとかそんなことを考えました。