視覚におけるフィードバックとフィードフォワードとは?
自分の妻の髪型を変えたのに気が付かなくて気まずい思いをする。
なぜこういったことが起こってしまうのでしょうか。
気持ちが足りないのか、注意が向いていないのか、いったいどういうわけでしょう。
今日取り上げる論文な注意と意識の関係について取り上げたものです。
人というのは見ているようで、実は見えていない。
妻の髪型が替わっても、まるで髪を切る前と同じような顔がそこにあるかのように認知してしまう。
なぜこういったことがおこるのでしょうか。
一つは人は見えているものを見えているとおりに認識しているのではなく、多分に思い込みの要素で認識しているからだではないでしょうか。
自分の妻の髪にソバージュがかかっていると思い込んでいれば、自分の妻を見るやいなや脳の中のソバージュ細胞が発火して「ソバージュの妻」が認識される。
こんなふうに思い込みで認識しているようです。
すこし髪の色を染めて明るくしたとしても、脳の中の髪色明るい細胞は発火せず、ソバージュ細胞だけがフィードフォワード的にバンバン発火する。
こういったわけで髪色明るい細胞の活動は抑制され、ソバージュ細胞がどんどん発火し、結果、髪の色を変えたのに気づかない。
自分の妻はソバージュだという思い込みが「ソバージュの妻」を際立たせてる。こういった働きはフィードフォワード的注意とも言われるようです。
これとは反対にフィードバック的な注意というのもあります。
黒尽くめの男の中に赤いドレスを着た女の人がいれば目に入る。これはどういうわけでしょう。
赤色のドレスは注意を引いて、その注意システムがより「赤色のドレス」細胞を活動させ、それがさらに注意システムを回して、さらにフィードバックがかかって、もっと「赤色のドレス」細胞が活動し、というふうに再帰性入力、フィードバックによって、「赤色のドレス」がより強く、どんどん強く認識されるようになる。
こういったのはフィードバック的注意といわれるようです。
フィードフォワード、フィードバック、いずれにしても何かを認識するというのは、さらのまんまの視覚景色に注意によって強調、色付けされて、多分にデフォルメされたものとして自覚的な意識として浮かんでくる。
こういったメカニズムがあるようです。
興味のある方はこの図がわかり易かったので参考にしていただければと思います。
【要旨】
「近年、認知研究分野において意識研究が大きく取り上げられている。しかしながら視覚的注意と視覚的意識がどのように違うのか混乱も見られている。しばしば視覚的意識はどこに注意が当てられるかのように言及される。しかし心理学的立場と神経生物学的立場の2つにおいて、意識と注意は異なるものであるとの議論がなされている。本稿では注意と意識の違いを明らかにし、両者がいかに結びついているかについて説明を行う。実際上、注意と意識の重複よりは記憶と意識の重複のほうがより重要であると考えられる。」
参考URL:Why visual attention and awareness are different.
コメント
さらのまんまの視覚情報を現象学的意識、そのあと現れるバイアスが掛かった視覚情報を近接可能意識というようです。
現象学的意識というのは、目の前に窓枠があって、両側には壁があるという意識を例に取れば、じっさいのところこうなんじゃないかというのがこんな感じです。
まぶたの奥から見えるはずの景色はこんなはずなのに、頭のなかでうまい具体に再構成して歪めて(?)認識している。
現象学のことはしっかりとは勉強していなので分かりませんが、神経科学の論文で現象学うんぬんの話が出てきて少し驚きました。
科学も哲学も世界を理解したいというとこから始まっているのだから、そういうのもそうなのかなと思ったり
脳というのは自動編集装置で、加工された情報しか意識に登ってこないのかな、ナマ情報に触れるというのは原理的に無理なのかな、と考えたり
生きて何かを認識すること自体がフィクションなのかなという気もします。脳というのが自動編集装置であるならば。
よいフィクションを生きよう(´・ω・`)
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