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権威者とかけて反逆者と解く、その心は?

私達は人生の結構な時間、弁証法に沿って生きているような気がする。

お金はないけど、楽しみたい、

嫌いだけど、うまくやっていきたい、

食べたいけど、太りたくない、

こういった2つの矛盾するものを解決する営みが弁証法だ。

対立し矛盾する2つの案件を大きな視点から取りまとめて統合する。

引用元:ダイヤモンド・オンライン「組織を弱くする「ダメな会議」の危険性、報告・レビュー型は危険!」

人類の歴史の進歩というのは弁証法のあゆみということになるのだろう。

わたしもしばしばモノを考える時、弁証法のお世話になる。

先日こんな事があった。

研究室からの帰り、地元の富山駅のあたりを歩いていると、ある建物の中に地元のヒーロー、八村塁の原寸大ポスターがあった。

ポスターの横には八村塁選手をモチーフにしたノートやペンが売ってある。

地元の小学生や中学生に勉強を頑張ってほしいとのことであった。地元の教育委員会からのプッシュでもあるのだろうか。

ふーんとおもってそのまま足を富山駅へ向けて歩くと、駅前のロータリー広場で、追いかける警官を尻目にスケボーで勢いよく滑走する高校生の集団に遭遇した。

よくまあやるなあと思ってみていると、最後尾のスケボー高校生が追っかけてきた警官に掴まって引きづられて歩いている。

遠くからニヤニヤしながら仲間の高校生が動画撮影をしている。ふと髪型を見ると、彼のヘアスタイルは八村塁そのままパクリであった。

背も高くて運動とかできそうだけど、あんまり文房具とか興味がなさそうな風情でもある。

そこで私はふと頭を抱えた。

片方には地元の教育委員会からもプッシュされそうな八村塁、

片方にはヤンチャな高校生にリスペクトされる八村塁、

片方はルールや権威の権化であり、片方は反ルール、反権威の実行者でもある。

なぜ同じ人物が対照的な2つの立場からリスペクトされるのだろうか。

家への帰り道、歩きがてら頭を捻って、弁証法に従って考えていたらふと思いついた。スポーツというのは飼いならされた暴力なのではないかと。

人間は粗暴な生き物である。

ラブアンドピースで世の中がうまく行けばいいがそうは問屋が卸さない。世界を回すのは理想主義ではなく、現実主義である。実際のところ、力こそ正義だ。

ビジネスにしても政治にしても、ベースにあるのは欲望と暴力で、人間の歴史というのは、こういった暴力をルール化し、無害化しようとしてきた歴史である。これはただの殴り合いがボクシングに発展した歴史とよく似ている。

スポーツというのは飼いならされた暴力なのだ。とはいえ、高校生から見たら飼いならされても暴力でもある。暴力はパワーで、パワーはいつでも本能的に魅力的だ。

暴れん坊のスサノオノミコトが征服事業を行った例でもないが、暴力性というのは事をすすめるのに絶対必要な要素でもある。

引用:Wikipedia「スサノオノミコト」

欲と暴力は人類にとっての「火」のようなもので、扱いに間違えば全てを焼き払うが、うまく扱えれば大きなエネルギーを取り出すことができる。

暴れん坊のスサノオノミコトも乱暴狼藉を働いた挙げ句、天界から人間社会に放り出されて、世間にもまれ、その暴力性でヤマタノオロチを退治して、おとなになっていく。

スサノオノミコトでもないけれど、大人になるというのは、自分の欲望や他者の欲望と折り合いをつけながら、暴力を上手に使えるようになる過程なのかもしれない。富山駅前の一幕もそんなプロセスの一つだったのだろう。

とはいえ、警官を小馬鹿にする態度は美しくもないし、力づくで引っ張り上げる大人の態度も美しさを感じられない。

力を超越したところにある美しさに到達することがヒトの一つのゴールなのかもしれない。種としても、個体としても。

 

 

 

 

 

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