
アトラクタと経済的合理性
最近、予測的符号化理論というものにはまっている。
これはざっくりいうと、脳は何かを見たり聞いたりする時に、それそのものを見ているのではなく、
今までの経験をもとに予測を立てて、まず予測ありきで物事を見聞きしている(なので、聞き間違い、見間違いがおこりうる)というものなのだけれども、
そのテーマで代表的な著作に『脳のリズム』というものがある。
大分前に買ったにもかかわらず雑事に追われて読めていない。
今朝起き抜けに久しぶりにページを捲っていると、アトラクタの概念についての説明があった。
アトラクタというのは、ヒトが歩くときのことを考えれば分かりやすい。
私達は日々歩いているけれど、完全に同じ歩き方というものはない。
右へ寄ったり左へ寄ったりするけれど、全体で見れば一定の軌道の中に収まるように歩いている。
経済活動も株価が上がったり下がったりはするけれど、全体で見れば一定の軌道の中に収まるようにできている。
揺れたりぶれたりはするけれど、概ね同じ範囲の中の挙動であってそこから外れることはない。
もしあなたが理学療法士なら新人とベテランの歩行介助を比べてみるといい。
ベテランが結構な冒険をしながら決して転ばせないのは、患者の歩行アトラクタを経験上理解しているからだし、
政治家や経営者が交渉に長けているのも、このアトラクタというものを身体で理解しているからだろう。
ただし、このアトラクタというのも決して一定なものではなく、閾値以上の外力が加わった場合、その挙動を変える。
歩行であればちょっとやそっと小突いた位では転ばないけれど、思いっきり突き飛ばせば、おっとっとと前のめりになり走り出す形になるかもしれない。
人間関係もちょっといじったりいじられたりくらいであれば問題がないけれど、ある閾値を超えれば、一線を越えればどちらかが切れてしまうということもあるかもしれない。
今回のパンデミック騒ぎでも社会のありようが変わるだろうと言われている。黒船でもないけれどよほどの強い外力がなければアトラクタは変わらないし、また一度変わってしまったアトラクタは元の軌道に戻れない。世の中もきっとこれから変わってしまうのだろう。
アトラクタは振る舞いを規定するものだが、これは言い換えれば常識と考えることもできる。
常識の範囲内でというのは、アトラクタの範囲内でということだ。人々の振る舞いはこの常識というアトラクタに規定される。
ではこの常識というアトラクタを規定している要因はなんだろう。
ざっくり考えればこれは経済的合理性だろう。世間一般の常識に従って行動すれば確率論的にも損をする可能性は低い。
私達は生き延びるために常識というアトラクタの範囲内で振る舞う。
とはいえ、ヒトは必ずしも経済的合理性や常識に縛られるわけでもない。例えばセクシャルマイノリティというものがある。
田舎に住んでいるとあまり合うことはないのだが、一度子供を大宮の新幹線博物館に連れて行った時、埼京線の中で骨ばった男性的な躯幹にフリフリな衣装とガーリッシュな髪型でゴマひげの男性を見た時、正直に言うと衝撃を受けた。
経済的合理性から考えた場合、彼の得るものは限りなく少なく、むしろマイナスになる可能性が高い。なぜ彼は経済的合理性から外れた振る舞いをするのだろうか。
翻って自分自身のことを考えるとどうだろう。
わたしが欲しいものはあまり多くはない。
思索の時間、家族の笑顔、健康であること、誠意と敬意、穏やかであること、未知との遭遇くらいだろうか。
また物欲が非常に少ないので現在の生活を持続するためのコストは非常に低い。おそらくヒトより高いお金を出しているのは味噌と味醂と醤油くらいだろう。
欲しい物を得るために勤めをやめて会社を始めてみたけれど、始めてみてから気づくことというのは結構多い。経営については拡大ではなく、心穏やかに持続できること、自分が欲するものを犠牲にすることなく生活を持続させることが自分の望んでいることなのかなと最近思う。
現在の常識と呼ばれるものが経済の上昇拡大に規定されるのであれば、おそらく私の振る舞いはときに異形のものとなることもあるだろう。でもそれはそれでいいんだと思う。それはおそらく埼京線の彼も同じ心持ちなのではないかと最近思う。
アトラクタから外れて見えるものもあるのかなと思ったりです。