
私達が見ているものとはなにか?
マインドワンダリングという言葉がある。これはマインド(精神)がワンダリング(グルグル歩き回る)するという意味で、とりとめなくボーッとした状態を指す。
これはなにも悪いことではなく、モヤモヤとした思考を整理するのにはマインドワンダリングを抜ける必要があるし、このマインドワンダリングを通じて様々なひらめきが生じることもある。その意味では創造性の源泉といっていい精神活動だろう。
成功する企業というのは創造性あふれる経営者とそれをサポートする実務家の組み合わせが大事だとも言われるが、それは脳も一緒で創造性に関わるデフォルトモードネットワークと実務を司るエグゼクティブネットワークの二本立てになっていると言われる。
今まで知り合った色んな人を見ていると、きちんとマニュアルに沿ってミスなく仕事できるヒトというのは案外即興で料理を作るのが苦手だったりするのに対し、定型的な仕事が苦手な人のほうが即興で冷蔵庫にあるもので手早く料理を作れたりする。世の中というのは色んな人がいて回っているのだろう。
先日熊野古道を歩いたのだが、これは終始マインドワンダリングのしっぱなしであった。少しくらい哲学的な高尚な思考でもできるかと思ったが、もっぱら立ち上げた事業のあれこればかりで、自分というのは思ったほどものを考えていないのだなとがっかりもする。そんなこんなで歩いていると、寂れた古い木造家屋と茶畑の合間にぽつんと一軒のアートギャラリーが建っていた。温かいコーヒーも飲めるらしい。コンビニ一軒もない街道を雨に降られて歩いてきた身には渡りに船だ。ふらりと入ってみる。
中はストーブが焚かれ暖かく、品のある家具が並んでいる。
老年のマスターに促されストーブの近くに腰掛けコーヒーを頼む。出てきたコーヒーは柔らかく口当たりのよい甘さがあり美味しい。コロンビア主体のブレンドできっとキーコーヒーのものに違いないなどと思ったら、やはりどうもそのようだった。奇をてらったものよりも、当たり前のものを当たり前に出すほうがよほど難しく貴重だと思う。
ギャラリーの中には御主人の作品が掛けられている。独特である。タイトルはなく具象とも抽象ともつかない。
銅板にバーナーで熱を加えることで墨絵のように模様が生じる。
模様自体には意味はない。一枚の銅版が変性し、その様体を変えるに過ぎない。
模様の中に何らかの意味を見出すのは個人である。
モノ自体は現れようとし、ヒトはモノを一定の観念のもとに見ようとする。
モノ自体とヒトの観念がぶつかりあう間で、何らかの認識が生じてヒトは何かを”見る”。
モノ自体と観念がぶつかり合って、認識が生じるその瞬間、狭間を切り取りたいというのような趣旨のことが書かれてあった。
12,000円との値札が書かれてある。
物欲はなく、機能的なもの以外に金を出すことは殆どないのだが、これは欲しい。即決で購入して家に届けてもらう。
ふと先日読み終わった本のことを思い出す。
私達の脳は予測する機械であって、過去の経験に基づいて対象を見たいように見ているのだと。
私達は世界を見ているのではなく、絶えず世界を構成し続けているのだと。
御主人は続けて言う。ヒトは世界を見たいように見てしまい現象そのものを見ることは難しい。
それゆえヒトは争いをやめられないのではないかと。
ものを見て、しっかりと生きるのは名人の技なのかなと思いました。