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アイスホッケーと生きる感覚、選ぶということ

小学校に上がったばかりの長男がアイスホッケーを始めた。運動偏差値はあまり良くない。私と妻を足して割ってで偏差値48というところか。何をやっても妻は子供を褒めるので運動の苦手意識はない。私は褒めるといった外発的なモチベーションで頑張らせるのは長い目で見るとあまり良くないと考えるので、ただじっと見守る。息子からたまに批評を求められると、おう、いいんじゃねえかと不愛想に答える。

下手は下手なりに楽しいようで、ゼロから始めたスケートの割には良くやっている。あれこれ氷の上で転んでは起き、転んでは起き、必死の形相で球にかじりついていく様を見てると涙腺が全開になりそうになる。

ミニゲームで負けたのが悔しくて氷の上でひっくり返しかえっては泣きべそをかく。習い事は初めてではない。保育園の頃は剣道を一年、水泳は半年くらい続けた。いずれも本人がやりたいといって始めたが、運動の適性が少ないのか、型にはめられるのが嫌なのか、段々嫌になってやめちゃうパターンだ。今回はどれ位続くだろうか。

私の持論として努力が必要なものは適性がないので、続けることを無理強いはしないというのがある。努力することを否定はしない。しかし私自身、努力第一主義で人生の結構な時間を潰したので人に努力を押し付ける気はない。適性がないものは努力したところで人並み、適性が著しくなければ恐らく努力することで失うものの方が大きい。

自分にに適性があるものは、辛くても楽しみがある。はたから見て努力だと見えても、本人は辛楽しいので努力とは感じない。私で言えば、本を読む事、考え抜くこと、文章で何かを伝えることは辛くても楽しい。褒めてくれなくてもそれを行うこと自体に喜びがある。科学研究ものめり込んでやり込めるが、読む、書く、考えるといった抽象概念を練るような作業と比べるとずっと自由度が低く窮屈に感じる。恐らく努力しても一流にはなれないだろうなとも思う。否、一流になれるかどうかを考える時点で適性がないとも言える。面白ければやればいいのだし、極論、そうでなければやらなければいいのだ。

転んで泣いて駄々こねて、もうアイスホッケーやりたくないという日も来るだろう。頑張れとは言わないつもりでいる。何も身につかなくても、自分で選び、成功も失敗も味わい、続けるも辞めるも自分で決められる感覚、人生は自分で選べるという感覚や、何が好きで何が好きでないのか、自分は何を欲していて何を欲してないのかという感覚が身につけばそれでいいと思う。他は皆おまけだ。

今振り返れば、両親は小さい時から人生の選択に口を出さなかった。明らかにそっちは失敗と判断するような場面でも決して行くなとは言わなかった。正直私の人生は客観的には成功と呼べるものではない。しかし全てのことを自分で考え、自分で選んだので、どの判断にも後悔というものはない。良い人生だったと思う。親には感謝する他ない。

来週も子供が戦ったりベソかいたりで私も泣き笑いするのだろう。息子にも良い人生を送ってもらいたいと思う。

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