
人生、幸福、旅と良き日々
専門医に処方された漢方薬が効いたのか病的な疲労感がようやく沈静化に向かう。まだ油断はできないが、取り敢えず小さな子供らの顔を見ては、我が身の状態にほっとする。
人間とは何かを考えていくと最後には二つのテーマに収斂していく。倫理と幸福だ。今回の不調は幸福について考える機会となった。
一度、ある案件の関係で幸福関係の書籍や論文を読み込む機会があった。いわく幸福は、健康、信仰、所得、社会的地位、家族、コミュニティなどからなると。
日本の幸福度指標には持ち家率や車の保有台数なんかも入ってくるのだろうか。今回体調を崩して気づいたのは、幸福の8割以上は健康が占めるということだ。
病気や怪我というのは症状は様々でも一様に苦しみという感覚を連れてくる。苦しみに塗られた世界では全ての喜びが大幅割引される。お金や地位、美味しいもの、人との繋がり、そういった健康以外の幸福構成要素がもたらす喜びを大幅割引してしまう。
そう考えれば、幸福に生きるということは健康に生きることとほぼ同義になる。しかしながら健康に生きるだけが本当に人生の目的なのだろうかという疑問も残る。
旅と人生は似ている。最近スペインの巡礼路を夫婦二人で歩いた紀行記を読んだ。目的は聖ヤコブが没した地、サンティアゴ・デ・コンポステーラを詣でることだ。800キロの道を数ヶ月かけて踏破し、あと目的地が僅かという時に筆者は問う、はて旅の目的は何だったのかと。
朝起きて、朝食を食べ、愛する人とともに巡礼路を歩く。時に美味しいご飯やワインに舌鼓を打ち、夜ぐっすりと眠る。こういった日々の行為そのものが旅の目的となっている。言い換えれば「良き日々を過ごすこと」が旅の目的になっていると。
このフレーズはそのまま人生そのものにも持ってこれるだろう。生きる目的に「良き日々を過ごすこと」以外に何があろうか。しかしここで分かった気になってはいけない。翻ってしつこくもう一度考えよう。「良き日々」とは何か?
愛する誰かと、自分の力や他者の力に頼りながらも、行きたい方に向かって、穏やかに、健やかに、歩き続けるということだろうか。あたかもハイハイを覚えたばかりの赤子のように。
私は、あなたは、良き日々を送っているだろうか。臆せず、目を逸らさず、自分のことをガン見してみよう。私は健やかだろうか、私は穏やかだろうか、私は行きたい方に向かっているだろうか。良き日々を過ごすためのリスクとコストはいかほどのものなのか。
人生が旅ゲーだとしたら、なかなか良くできている。愛する誰かと過ごすこと、健康でいること、欲望を満たすこと、安寧でいること、これら全てのパラメータを同時に最大化できないような設定になっている。人生というのは、このゲームでどのパラメータにどれほどの数字を埋めていくか考え続けるゲームだろう。
健康は大事なのは今回痛いほどにわかった。さてどうしようか、ゲームオーバーをできるだけ先送りしつつ、自分の欲望をガン見しながらもう少しゲームを続けようかと思います。