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今日取り上げる論文は、視覚的注意についてのものです。

何かを見ている時、視野には何百という視覚刺激が入ってくるのですが、通常それらをすべて認知することはありません。ヒトの知覚処理能力というのは随分限られているようで、その時その時で必要な情報だけを数百という視覚刺激の中から選択的に拾いだして認識しているようです。

本を読めば、認知される文字はページのごく一部分でしょうし、腕時計に目をやれば、認知されるのは腕時計の文字盤でそれ以外の情報は意識に登ってこないのではないかと思います。

視野には競合するいろんな情報が入ってきて、ごくその一部分だけが注目されて意識に登ってくる、考えてみれば不思議な事だと思うのですが、この論文ではこれがどのような形でなされているか仮説的なモデルが示されています。

目に入った情報は一度すべて視覚野に入ってくるのですが、これがボトムアップ的に重み付けされたり、あるいはトップダウン的に重み付けされたりして、そこで生き残った視覚情報が記憶にアクセスできたり、さらには更なる視運動につながって、という流れがあるようです。

ここでいうボトムアップとは、例えば赤色のボールの中に一つだけ黒色のボールがあったら、そのコントラストからいやでも目に入ってくるようなことを指し、またトップダウンというのは、この中でサングラスをかけた人だけを探しなさいと言われたら、サングラスに注目して見るでしょうし、そんなことだと思います。

このトップダウン処理には頭頂葉と前頭葉のネットワークが関係しているのではないかということが述べられています。

これを論文の中の図を参考に模式的に表すと

前頭-頭頂ネットワークによる
トップダウン処理
  ↓↓↓
視覚野での様々な  → 記憶と運動システム
表象の競合     → への出力
  ↑↑↑
感覚駆動性のボトムアップ処理

ということになるのかと思います。

遺伝子検査のジーンライフ<Genesis2.0>

【要旨】

「私達の視覚処理容量は限られているため、通常私たちの視野には入る刺激は競合することになる。これらの競合する刺激は、トップダウン的に、あるいはボトムアップ的に、選択的注意によって重み付けされて処理されることになる。近年の機能的脳画像研究によって、視覚刺激の有無にかかわらず、選択的注意による重み付け信号によって視覚野の活動が調整されることが示されている。このような競合する刺激の処理は最終的には視覚野でなされるものの、この視覚野の情報処理過程には頭頂葉と前頭葉のネットワークによる重み付け信号が関わっていると考えられる。」

参考URL:Mechanisms of visual attention in the human cortex.

コメント
何らかの意味のあるひとつのまとまりとして物が見えたり、音が聞こえたりするのは考えてみれば不思議な事だと思います。

それはさておき、昨日は私淑する先生が地元まで講演に来られ大変興味深いお話を聞くことができました。

内容も盛りだくさんで、示唆されることも非常に多かったのですが、つまりは「よく考えて治療しなさい」ということなのかと思います(笑)
お話を聞きながら考えたのは、一つは脳はするものなのか、なるものなのかということで
先生のお話の節々から、先生はきっと脳はなにも考えなくても自動的に勝手に回っているいわば、「なるもの」として脳を捉えていらっしゃると思うのですが、それは私もそうだなと思うのです。
なので、ここが運動プログラムを作るという言い方よりは、ここで運動プログラムになるのような言い方なのではないかなとは思ったのですが、それは先生がわかりやすいように「するもの」としての文脈で話されているのだろうななどと考えながら聞いていました。

もうひとつはセラピストの仕事が何かと考えた場合に、つまりは「主体感をこしらえる」ことだと思うのです。

主体感といってわかりにくければ「私は私なのよ」性といってもいいと思うのですが
「私」が「私」として感じて、「私」として動いて、「私」として考える、この人生の長い歴史の中でこしらえてきた「私は私なのよ」性が、何かの原因で崩れた時に、それをもう一度こしらえなおす仕事がセラピストの仕事がなのかと思いました。

この「私は私なのよ」性、「主体感」というものは、親が子供に、あるいは先生が生徒、先輩が続く後輩に伝えるようなそんなものだと思うのですが、

そう考えるとセラピストの仕事というのは広義の意味で教育的なものになるのかなと思いました。
ただこの主体感というのは、どこからくるのか考えて見ると不思議で、

自分は自分と思っている自分は親の写し鏡かもしれないし、あるいは先人の考えが映しだされたかもしれない。

つまるところ写し鏡が無限に並んでいるところにふわりと浮かぶホログラフィーのようなものが自分であって、そこにある主体感というのは幻で
そうすると主体感をこしらえるということは、つまりどんなことなんだと、

ここまで書いて自分でもあたまがこんがらがってきたのですが、ミラーニューロンから行き着いたラカンという人の本を読んで考えたりしました。

 

 

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