「見える」と運動はどうつながっているか?
普段、当たり前すぎて考えることもないのですが、「見える」という意識状態はどういった状態なのでしょうか。
ぱっと目の前を見てみる。
目の前には携帯の画面があるかもしれないし、少し顔を上げれば晴れた空や空に浮かぶ雲もあるかもしれない。
でもなぜ黒やオレンジ、赤などの色の塊が「携帯」として認識されるのでしょう。
あるいは青や白の波長からなる景色を「空」という一定の景色として捉えてしまうのでしょう。
何千、何億、それ以上の光の粒子がランダムに並んだ空間を見ては、携帯だ、空だ、同僚だというふうな視覚認識が立ち上がる。これはなぜこんなことが起こるのでしょうか。
何千、何億、それ以上の光の粒子が映し出されるところとはどこでしょうか。
これは光の入り口の網膜でしょう。
この網膜に入った光の情報は視床を通ってそのまんまをコピーするような形で一次視覚野に表象される。
人が「見える」という視覚的意識を持つとき、これは一次視覚野の情報を反映する形でこういった「見える」意識が立ち上がるのでしょうか。
そんなことはないのではないかと思います。
こういっただまし絵を見れば分かってもらえると思うのですが
上図参考URL:http://futottyoojisan.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_a42/futottyoojisan/070.jpg?c=a0
一次視覚野だけの情報では、同じ絵が二通りに見える、あるいは二通りの見方が同時に出来ないという事実を説明できないのではないかと思います。
「見える」という意識的経験は一次視覚野以上のどこか高次認識に関わる領域の活動を反映したものではないかというのが今日の論文の趣旨だと思います。
図に書くと以下の感じになると思います。
運動
↑
一次運動野
⇅
↑→→→前頭前野/運動前野
視覚的意識? ⇅
↑←←←高次視覚野
⇅
一次視覚野
⇅
視床
⇅
網膜
⇅
光
飛んでくるボールに手を伸ばすことを考えても、固いかぼちゃをい包丁で切ろうとするときのことを考えても、感覚と運動というのはペアになって、ループになって一つのシステムになっていると思うのですが、
この感覚が運動に変換されようとするその間隙に「見える」「聞こえる」「触れている」といった主観的意識が立ち上がるのかなとこの図を見て思いました。
「一般に私たちの視覚的意識は一次視覚野の活動を何らかの形で反映したものと考えられている。しかしマカクザルを対象にした神経解剖学的研究では、視覚的意識は一次視覚野以外の領域と関連していて、一次視覚野の情報は直接視覚的意識に現されないことが示唆されている。ヒトにおいてもこのマカクザルと同様の知見を示すエビデンスが散見されている。」
参考URL:Are we aware of neural activity in primary visual cortex?
コメント
ドイツ語が少し分かるのだけれども
昔、外国の安宿に泊まって、相部屋のベッドで寝ていると
よる遅く意味不明な言葉を話す団体がやってきて、何語なんだろうなどとしばらく効いていると、
30分も聞き流していて、ああ、これは抑揚が平坦なドイツ語かなと思った瞬間、すべてがちんぷんかんぷんだったその言葉が意味を持ったドイツ語として認識されるようになって、あれは不思議な経験でした。
バラバラだったいろんな情報が構造化されることで意味が生じる。
だまし絵で、ただのシミの集まりにしか見えないのが実は動物の絵だったりとか
推理小説の最後のほうで今までの伏線がひとつにまとまって犯人が分かってしまうのとか、
何かを認知するというのはバラバラな情報を一つの形にするという構造化といわれるような何かが絡んでるような気がして
ミラーニューロンシステムやそれにからむブローカ野のあたりなんかはその構造上、脳の中のバラバラ情報を構造化する何かなような気がするのだけれども
そう考えると「見える」「聞こえる」「触っている」といった「わたしが何かを感じている」という意識経験の成立には、ミラーニューロンシステムが何かしら関わっているのかなあと思いました。
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